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言葉の定義に拘り過ぎ ブログトップ
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アメリカ全体の共和制の健全化,habits of the heart心の習慣 [言葉の定義に拘り過ぎ]

政教分離の話とまぁ少し分けながらなのですが、市民社会とそれから宗教の問題ということなのですが、非常に島薗先生は重要な本を訳されていて、ロバート・ベラーという人の『心の習慣』という本なのですね。「心の習慣」という言葉は政治学者にとってはピンと来る言葉でして、これはトクヴィルという人が使った言葉なのですね。トクヴィルというのは、私も一応今大学で政治学っていうのを教えてるものですから、デモクラシー論というのを教える時には真っ先に教えなければならない人物ですね。トクヴィルという人は『アメリカのデモクラシー』という本を書いた人物で、彼はフランス人です。フランスがフランス革命をやったにもかかわらず、デモクラシーの国だという自意識を持っているにもかかわらずフランス革命以降、フランスは独裁者を選んでいく訳ですね。まさにそのデモクラシー故に。何故フランスではこういうふうにデモクラシーが崩壊していくのか、そういうのにぶち当たった若きトクヴィルは、アメリカに行ってそのデモクラシーとは一体どういうものなのか。アメリカの方がどうも上手く行ってるっぽいぞ、いう風に彼には見えた。のちにアメリカも上手く行かなくなるだろう、って彼は書いていますけれども。じゃあどういう要素によってアメリカはこのデモクラシーがそれなりに機能しているように見えるのか、と考えたときに。

 トクヴィルの結論は簡単に言うと、実はデモクラシーの重要なポイントっていうのは、国家と個人の間にある中間領域っていうのが重要である、って考えるんですね。人々が個人だけではなくて、トクヴィルが例えば非常に重要視したのはchurch教会ですね。教会に週末になったら通う。そうするとその教会に通うと勿論宗教的な話をする訳ですが、それだけではなくてですね、「いやちょっと最近あそこの川汚いね」と。「一斉清掃しましょうね」っていう話合いが行われたりとか。「最近どこそこの誰々さんが来てないね、一緒にあのノックちょっとしに行きましょうか」とか。そういうような小さなパブリックってのが生まれてくると。他者との間のそういう様々な合意形成をするような、今の言葉でいうとソーシャルキャピタル社会関係資本のようのなものが生まれてくる。そうするとそこからですね実はデモクラシーの非常に重要な土台が生まれ、それが延いてはアメリカ全体の共和制みたいなものの健全化に繋がっているんじゃないのか? つまりデモクラシーにとって重要なのは実は人々が他者とこういう風に顔を合わせそして合議をしていく具体的な場である。そしてそこにおいて様々なものを決定していくというタウンシップという言葉を彼使っていますが、それがアメリカのhabits of the heart心の習慣というものではないか。この伝統こそがデモクラシーを上手くやっているっていうそういう議論。ですからデモクラシーにとってはこの宗教的な中間領域っていうのが重要である、というのがトクヴィルの一つのテーゼである訳ですが、これを現代に引き継いだのがベラーという人ですね。ベラーは市民宗教というのを考えました。アメリカが行き過ぎた個人主義にどんどんなっていけばなっていく程、デモクラシーが破綻していくとするならば、もう一度アメリカのhabits of the heart心の習慣を思い出そうぜ。そのときにもう一度宗教的なとこに関与するようなそういうようなルートをもう一度市民宗教として立直そうというのが、ベラーのテーゼですよね。

45:04~48:11
中島岳志(政治学者)×島薗進(宗教学者) ナショナリズムと宗教を問い直す
https://youtu.be/dR0hmJt9G7I?t=45m4s

心の習慣―アメリカ個人主義のゆくえ

心の習慣―アメリカ個人主義のゆくえ

  • 作者: ロバート・N.ベラー
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 1991/05/08
  • メディア: 単行本



先例 [言葉の定義に拘り過ぎ]

与党、内閣信任決議案で対抗の強硬論も

 自民、公明両党の幹事長と国会対策委員長は25日、東京都内のホテルで会談し、内閣不信任決議案が提出された場合には結束して否決する方針を確認した。
 公明党の大口善徳国対委員長は会談後、記者団に「(決議案には)きちっと反論し、否決する」と強調した。自民党の谷垣幹事長は安倍首相との会談でこうした考えを伝えた。
 与党内には、「同案提出は野党のパフォーマンスだ」として、内閣信任決議案を提出して対抗すべきだとの強硬論も出ている。衆院の先例では、信任、不信任の両案が提出された場合は、信任決議案を優先的に処理するとされている。過去には与党・自民党が信任決議案を提出、可決し、野党の不信任案が採決に至らなかったケースもあるからだ。

2016年05月26日 16時12分
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20160526-OYT1T50019.html

パレート最適 [言葉の定義に拘り過ぎ]

 ベンサムからすれば、人々が政府の権威に服するのは、政府に服従することから得られる功利が、それに反抗することによって得られるであろう功利よりも優越しているからであり、またそのかぎりである。そうであるならば、政府としては、できるだけ正確に国民の欲求を計測し、その増大をめざすことで正統性の基盤を強めることができるであろう。こういった功利主義は、J.S.ミルやシジウィックによって理論的に洗練され、さらには新古典派経済学を支える根本的な発想となる。なかでも、

パレート最適(資源の使い方をどのように変えても、他の者の効用を下げずにだれかの効用を高めることができない、という条件の満たされた状態)

の原理を中心にすえて展開した厚生経済学が、功利主義の原理を実際の経済政策・社会政策に反映させるために大きな役割を果たしてきた。

第1部 第5章 国家と権力 101頁
『政治学』(初版)有斐閣2003

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格差原理 [言葉の定義に拘り過ぎ]

ノージックは恵まれない人々の立場を最良化するという(リベラルの※)格差原理の適用されるミクロな例として、「あなたは何年ものあいだずっと目が見えてきた、だから今、あなたの目の片方(または両方)は、他人に移植されるべきだ」という極端な例をあげている。
括弧内※本ブログ、前掲『正義論の名著』

夫婦 [言葉の定義に拘り過ぎ]

ヒューム「社会の原初的な段階は夫婦である。『両性間の自然的な情愛』が社会の基礎である」

飛鳥文化 [言葉の定義に拘り過ぎ]

大陸半島、印度、希臘文化の影響を受けた仏教中心の文化
寺院:法隆寺、飛鳥寺、四天王寺
仏像:鞍作止利による釈迦三尊像や救世観音像
工芸品:玉虫厨子天寿国繍帳(刺繍)
仏典注釈書:『三経義疏』(聖徳太子)
歴史書:『国記』『天皇記』(聖徳太子)

参考文献:LEC「教養 人文科学 日本史」, 山川出版社『詳説 日本史B』, Wikipedia

アファームティブ・アクション [言葉の定義に拘り過ぎ]

 アファームティブ・アクションは、アメリカではリベラル派の代表的な政策の一つであり、その可否をめぐって激しい論争が繰り返されてきた。大学や大学院の入学者選考におけるエスニック少数派に対する優遇措置を題材に、もう少し詳しく検討してみよう。アファームティブ・アクションには、①あらかじめ人口比に応じた別枠の入学割り当てを設けるクオータ制、②少数派であることを一定の限度内でプラスのファクターとして評価する制度など、いくつかの種類がある。②の場合、高校や大学での学業成績、エッセイや共通学力テストのスコアだけではなく、エスニック少数派であることを、スポーツや文化活動に秀でているといった要素と同様にプラスの判断材料として勘案して合否が決められる。
 こういった措置に対し、学力の面では合格水準に達しているものの白人であるがゆえに不合格となったのは、憲法で保障された機会均等の権利の侵害にあたるとして、不合格者が大学を訴えるケースも出てきた。こうした「逆差別」の主張を支えるのは、個人が才能と努力によって身につけた実力(merit)に応じて資源が分配されることが多くの場合最善の結果をもたらす、という確信である。連邦最高裁判所は、1978年に厳格なクオータ制は違憲だが、個人を単位として人種の違いを考慮する選考は合憲であるとの判決を下したが(カリフォルニア大学理事会対バッキー事件判決)、その後も類似の訴訟が起こされる等、論争は続く。逆差別の主張以外にも、優遇措置は個人を個人としてではなく、何らかのエスニック集団に属する者として扱うため、かえって「人種」というカテゴリーを固定化してしまっているという批判や、真の問題の所在は、人種であるというよりは経済的格差にあるといった指摘もある。
 他方、アファームティブ・アクションを擁護する議論には、まず、少数派に加えられた過去の差別や不正に対する償いとしてこれを正当化するものがある。また、レベルの高い大学や人気のある職種に少数派がその人口比に応じた比率を占めることができないのは差別の構造が残存するからであり、結果の平等の観点からこれを政策的に正す必要があるという主張もある。さらに、少数派の集団をリードし、その規範となるような人材を優先的に育成することの社会的効用の大きさを根拠とする意見もある。今日最も有力なのは「多様性」を重視する立場からの、異なる文化的背景をもつ学生が共に学ぶことは、少数派のみならず多数派にとっても多大なる教育効果があるという議論である。
 エスニック少数派を優遇するミシガン大学の入学者選考は違憲であるとの訴訟に対し、連邦裁判所はバッキー判決事件を踏襲する判決を下し、あらためてアファームティブ・アクションの合憲性を再確認した(2003年6月)。

第1部 chp.6 sec.1, 122頁 COLUMN 6-1
『政治学』(初版)有斐閣2003

無知のヴェール [言葉の定義に拘り過ぎ]

 このような原初的な状態において、人々が前記の原理のもとで公正に選択することができるように、ロールズが採用したのが、無知のヴェールという装置である。この無知のヴェールとは、選択するにあたって当事者は目の前にヴェールが掛けられていて、ある事柄をあらかじめ知ることができないということである。しかしこの無知のヴェールには、知ることができないという消極的な側面と、それでも知っているという積極的な側面がある。まず知ることができないというのは、来るべき社会において自分がどのような「社会的な地位、階級もしくは社会的な身分」を占めるようになるかを知ることはできないということである。特権的な富裕層の一人になるのか、極貧者になるのか、あらかじめ知ることができない。
 第二に、生まれつきの才能や資産、運命、知力、体力などについても知ることができない。天才に生まれるのか、身体に障害のあるものとして生まれるのかを知ることができないのである。
 第三に、自分の合理的な人生計画についても知ることができず、どのような生活を好むのか、悲観的な人間なのか、楽観的な人間なのかも知ることができない。
 第四に、その社会に特有の状況を知ることができず、経済的な状況も、政治的な状況も知ることができない。その社会が文明化されたものか、どのような世代に属しているのか、第一世代なのか、社会が形成されてから長い年月がたった世代に生まれるのかを知ることができない。
 これらの無知の条件の消極的な側面のもとでマキシミン原理を想定すると、来るべき社会でその人はもっとも不利な身分を占めるようになると想定せざるをえない。そのために選択可能な他の体制と比較すると、最悪な条件が相対的に好ましいものを選択せざるをえないである
 しかし社会の具体的なありかたについて無知であるとしても、選択を下すためには、一般的な原理や状況については「知っている」必要がある。これが無知のヴェールの積極的な側面である。第一に当事者は、自分も他のすべての参加者、前記の正義の状況のもとに置かれていることを知っているし、その状況がどのような意味をもつかも知っている。また来るべき社会の詳細は知らないが、人間社会全般についての知識があり、政治的な事柄や経済的な理論の原理を知っている。そしてこの選択に影響する「あらゆる一般的な事実も知っている」のである。こうした一般的な知識に基づいてロールズが提示する社会的な原理のうちから、自分にもっとも有利な原理を選択することが求められるのである。

原文ママ
ロールズ『正義論』――公正としての正義より
前掲書 中山元『正義論の名著』ちくま新書2011

集団的自衛権 [言葉の定義に拘り過ぎ]

 集団的自衛権は、ある国が武力攻撃を受けた場合、この国と密接な関係にある第三国が被攻撃国を助けて共同してその防衛を行う権利であり、安全保障理事会が国際の平和および安全の維持に必要な措置をとるまでの間、一時的に認められた(国連憲章第51条)。しかし、冷戦が始まって安全保障理事会が機能しなくなると、米ソ両陣営は集団的自衛権に基づく相互の防衛機構(東側はワルシャワ条約機構<WTO, 1955年>、西側は北大西洋条約機構<NATO, 1949年>)を設立した。これらは冷戦期を通じて、対峙して存続した。また、米ソ両陣営は勢力の拡大をめざし、集団的自衛権に基づいた同盟関係を拡大した。

第1部 chp.8 sec.1, 162頁


 日本の安全保障政策にとっての最大の課題は、集団的自衛権の行使としての武力行使を行えるか、という問題であった。1950年代以降、政府は、集団的自衛権を「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」と定義した上で、集団的自衛権の行使は憲法上許されない、と解釈してきた(内閣法制局見解)。日本政府は、この見解に基づいて憲法9条と日米安保条約との調整をはかってきた。

第1部 chp.8 sec.1, 173頁
『政治学』(初版)有斐閣2003

"決議に"拘束力はない [言葉の定義に拘り過ぎ]

下記webリンク先中段、後ろから4パラ目冒頭。議会での首長辞任の決議は、あくまで法的拘束力を伴わない。参院問責決議然り。一方衆院内閣不信任"決議"は、憲法に直接記載され→内閣は10日以内に総辞職又は解散。(ところで…、参院に於ける野党による、審議引き延ばしを目論む委員長から閣僚からの問責決議採決乱発を未然に防ぐ為、一時不再議の活用で→与党側から一括で衆院内閣信任決議可決と同等の対抗する手段はあるのですか?)
↓↓↓


http://www.jiji.com/jc/c?g=pol&k=2014011000970
時事ドットコム:沖縄県議会、仲井真知事の辞任要求決議可決=普天間、名護市長選に影響
沖縄県議会、仲井真知事の辞任要求決議可決=普天間、名護市長選に影響

沖縄県の仲井真弘多知事に対する辞任要求決議を賛成多数で可決する県議会=10日夜、那覇市の同県議会 沖縄県議会は10日夜の臨時会本会議で、仲井真弘多知事が米軍普天間飛行場(宜野湾市)移設の前提となる名護市辺野古沿岸部の埋め立てを承認したのは公約違反だとして、知事の辞任要求決議を野党などの賛成多数で可決した。県議会事務局によると、こうした決議の可決は前例がない。




【図解】普天間飛行場と辺野古埋め立て部分



 決議に拘束力はないが、県議会が知事への「不信任」を突き付けたことで、埋め立てに向けた地質調査など政府の作業に影響が及ぶのは避けられそうにない。12日告示の名護市長選で、知事が支援する辺野古移設推進派の新人候補は苦しい立場に立たされそうだ。
 知事は決議を受け「極めて遺憾だ」とのコメントを発表。この中で「公約に掲げた政策の実現に取り組み、一括交付金の獲得、基地跡地利用推進法の改正等の主要政策の実現をみた」と、「公約違反」との批判に反論、「今後とも、基地負担の軽減や沖縄振興といった公約の実現にまい進する」と辞任しない意向を明確にした。 
 決議は、知事が普天間飛行場の県外移設を掲げた公約を「変えていない」と主張していることに対し、「開き直る態度は不誠実の極みであり、県民への冒涜(ぼうとく)というほかない」と厳しく批判。社民党や共産党など野党21人と地域政党「そうぞう」3人の計24人が賛成した。与党の自民、公明両党の19人と無所属2人は反対した。
 本会議ではこれに先立ち、辺野古埋め立てに環境保全上の懸念を指摘し、「承認に値するものではないことは明白」と知事の判断を批判して移設断念を求める意見書を賛成多数で可決。一方、自民党提出の普天間早期返還を求める意見書は反対多数で否決された。(2014/01/11-00:13)

比較生産費説 [言葉の定義に拘り過ぎ]

 リカードは、イギリスとポルトガルの2国、ワインと服地の二つの製品を例としてあげている。イギリスは、服地1単位を生産するのに100人の労働者が必要だが、ワインを1単位生産するには120人必要である。他方、ポルトガルは、服地1単位を生産するのに90人必要だが、ワインを1単位生産するのは80人で済む。この状況で、両国がそれぞれ二つの製品をつくる場合と、比較的生産費が安い方の製品(これを比較優位にある財という)をつくることに特化して、互いに貿易した場合とを比べてみよう。
 イギリスにとっては生産費が安い(比較優位にある)のは服地であるから、ワイン生産に従事していた120人を服地生産に振り向ければ、服地が2.2単位できる。ポルトガルでは、服地の生産に従事していた90人をワイン(ポルトガルにおいては比較優位にある)の生産に従事させれば、2.125単位のワインが生産できる。イギリスとポルトガルの間で貿易が行われ、生産した服地とワインの交換が行われれば、同じ生産費(この場合、労働者の人数で測られる)であるにもかかわらず、イギリスとポルトガルは、両国がワインと服地をそれぞれ1単位生産した場合以上の利益(服地については0.2単位増、ワインについては0.125単位増)を生み出すことになるのである。これが、比較生産費説である。この考え方によれば、貿易をすることによって貿易に参加した者の利益は増大することになるのである。

第1部 chp.9 sec.1, 181頁
『政治学』(初版)有斐閣2003

βコーポラティズム [言葉の定義に拘り過ぎ]

経営者側と労働者側がそれぞれ単一もしくは少数の頂上組織をもち、労使の頂上団体が賃金や物価上昇率などについて協議して一定の方針を固め、政府もまたその方針が実現されるように協力している政治のこと(中略)一方に個別企業や業界団体を統括する経営者の頂上団体があり、他方に企業別組合や産業別組合を統括する労働者の頂上団体がある。それぞれの頂上団体が、傘下の企業や団体を効果的に統制することによって、駆け抜けもしくはただ乗りを防ぐようにしながら、賃上げと価格引き上げを一定の範囲に抑える約束をする。政府もまた公共料金を凍結するなどして、政府として可能な範囲で労使の約束が果たされるような環境づくりをした。

『政治学』(初版)有斐閣2003
479~481頁



岡沢憲芙編『演習ノート 政治学』〔第4版〕法学書院2007
I 政治の基本概念 10 コーポラティズム

taxis [言葉の定義に拘り過ぎ]

ルールと秩序
 ハイエクは近代世界が、所属する個々人が対面しうる程度の大きさの「小さな社会Face to Face Society」から対面不可能となった「大きな社会Great Society」に移行したことで始まった、としている。前者においては所属する人間の数も小数だから、彼らは具体的な共通目的をもつことによって統合されうるし、経済活動も中央集権的に行われうる。その秩序は「戦場の秩序のようなつくられた」もので、「タクシスtaxis」と呼ばれる。社会に散在する具体的で個人的な知識の絶対量も中央で管理しうる程度に少ないため、商品につき求められている主観的分類が何であるかも、特定の人間が理解可能である。
前掲同書192頁, 193頁

weight [言葉の定義に拘り過ぎ]

ケインズは、推論によって命題間に蓋然性があると観取されたにもかかわらず未来にかんする知識が薄弱な基盤しか持たないとき、「重み(weight)」が低いと表現する
前掲書『ケインズとハイエク 貨幣と市場への問い』p.247

日本精神 [言葉の定義に拘り過ぎ]

台湾語で語られる日本精神には「清潔」「公正」「勤勉」「信頼」「責任感」「正直」「規律順守」「滅私奉公」など多様な意味が含まれ、全人格的な価値観の総称として台湾人自身が使い始めた言葉である。
『正論』産経新聞社 平成22年 1月号53頁より

正論 2010年 01月号 [雑誌]

正論 2010年 01月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日本工業新聞新社
  • 発売日: 2009/12/01
  • メディア: 雑誌



美人投票 [言葉の定義に拘り過ぎ]

 こうした事態を受けてケインズは、有名な美人投票のたとえを持ち出している。資産市場は「投票者が一〇〇枚の写真の中から最も容貌の美しい六人を選び、その選択が投票者全体の平均的な好みに最も近かった者に賞品が与えられる」という「美人投票」のようなものになったと言うのである。この「美人投票」のゲームでは、それぞれの投票者は自分が最も美しいと思う写真を選ぶのではない。他の特定の投票者が最も美しいと考える写真を選ぶのでもない。つまり、人々の好みを問うているのではない。そうではなくて、好みであるか否かはともかくとして、平均的な意見が誰に投票するのかを読み解こうとしていると言うのである。
前掲同書p.149

自生的秩序 [言葉の定義に拘り過ぎ]

 ハイエクは資本理論から自由論に歩を進めるにつれ、定常的均衡といった経済学用語を使わなくなり、代わりに「自生的秩序spontaneous order」を掲げるようになる。「秩序」は、こう定義される。「さまざまな種類の多様な諸要素が相互に密接に関係しあっているので、われわれが全体の空間的時間的なある一部分を知ることから残りの部分にかんする正確な予想、または少なくとも正しさを証明できる可能性の大きい予想をもちうる事象の状態」である。

第五章 自由の条件と終焉―『自由の条件』と『自由放任の終焉』 より195頁
松原隆一郎『ケインズとハイエク 貨幣と市場への問い』講談社現代新書2011
<傍点部を、サイズを大きくし更に太字に改めました>

†見えざる手 [言葉の定義に拘り過ぎ]

「 ただしスミスは、この他者のまなざしは、たんに良心としての審級によって、人々に正義を守らせるだけではなく、公的な善を実現するための不思議な力も発揮すると考える。良心としてのまなざしは、社会の維持のためには不可欠なものであるが、すべての人にそなわるものではないし、人は正義の規則に反する悪しき心をもった「悪漢」となることもある。そしてこの良心としてのまなざしは規制するだけであって、社会を発展させる力をもたない。
 ところが他者のまなざしは、社会のうちで生きる人々に自己を見つめることを習慣とさせる。人々は自己愛を満足させるために、虚栄心を満たすために努力することで、結果として社会に貢献するのである。このまなざしは人々の欲望を刺激し、拡大することで、知らず知らずのうちに社会に貢献させるのである。
 貧乏な青年がいるとしよう。この青年は豊かな生活がしたい、高い地位をえたいと願って、必死に働くだろう。そして生涯にわたって、この欲望の充足を諦めていたならば獲得できたはずの「かれの力のおよぶ範囲にある真実の平静を犠牲にして」、自分がとうてい実現できないかもしれない豊かな生活を目指して、苦闘する。そして死の直前になって、望んでいた「富と地位がとるにたりない効用をもつ愛現物にすぎず、肉体の安楽と精神の平静を確保するためには」まったく適していないことを認識するようになるだろう。
 それでは、彼はどうしてこれほどに空しい努力をしたのだろうか。それは「当事者の感情よりも、観察者の感情に多くの考慮をはらうからだ。当事者の境遇が自分にどう見えるかよりも、他の人々にどう見えるかを考慮するからだ」とスミスは語る。これは幻想にすぎないものかもしれない。しかしスミスはそこに自然の「欺瞞」が働くと考える。そのために「富と地位の快楽は、何か偉大で美しく高貴なもの」と見えるのであり、それに多大な労働を捧げる価値のあるものと見えるのである。
 また豊かになった人々は、他者のまなざしによってみずからを眺めることで、さまざまな贅沢品を手に入れたいという欲望に駆られる。そして貧乏人のあいだに自分の財産を分配するようになる。これもまた他者のまなざしの魔法であろう。「豊かな人々は、自分の奢侈と気紛れから」多額の支出を行って、貧しい人々の生活を支える」のであり、人々がそれをこうした豊かな人々の「人間愛や正義心に期待しても、無駄だったろう」。人間の社会を発展させ、「すべての科学と技術を発明させ、改良させた」のは、この欺瞞の力なのである。この自然の欺瞞は「見えない手」として働いて、社会のうちで「生活必需品の分配をおこなうのであり、こうして、それを意図することなく、それを知ることなしに、社会の利益をおしすすめ、種の増殖にたいする手段を提供する」のである。
 『国富論』では、さらに分業という観点が明確にされ、すべての人が自己愛の原理に基づいて、社会に必需品を提供することが指摘される。「われわれが食事できるのは、酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、自分の利益を追求するからである。人は相手の善意に訴えるのではなく、自己愛に訴えるのであり、自分が何を必要としているのかではなく、相手にとって何が利益になるのかを説明するのだ」(『国富論』)。公共善を目指した活動よりも、自己愛による自己の利益を追求した活動のほうが、社会の全体の利益となることが多いのである。こうした活動は、「見えざる手に導かれて、自分がまったく意図していなかった目的を達成する動きを促進することになる。そして、この目的を各人がまったく意図していないのは、社会にとって悪いこととはかぎらない。自己の利益を追求するほうが、実際にそのように意図しているときよりも効率的に、社会の利益を高められることが多いからだ」(同)。
 このようにスミスにとって正義の原理とは、他者のまなざしを心のうちに確立することを意味にしていた。他者のまなざしは良心となり、正義のための自己犠牲を可能にする。「たがいに対立する利害を、われわれが他の人々の目をもってみる場合に限って、われわれ自身にかかわる事柄を、比較すれば何のためらいもなく放棄すべきほどに、軽蔑すべきものとして見ることができる」(『道徳感情論』)というのである。」


アダム・スミス『道徳感情論』――人間には正義を望む道徳的な感情があるより
中山元『正義論の名著』ちくま新書2011

大乗仏教 [言葉の定義に拘り過ぎ]

紀元前後から、保守化・形式化した従来の仏教を批判して大乗仏教が起こった。大乗仏教は菩薩信仰の下に、すべての人の救済を目指した。
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