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政友会の反ファッショ化 [読み物]

 二・二六事件以前には陸軍皇道派と結んでファッショ色を強めていた政友会にも、二月二〇日選挙での敗北と二六日事件の鎮圧を機に、変化があらわれてきた。政友会と民政党とが提携して軍部に対抗しようとする政民連携派が優勢となってきたのである。一九三七(昭和一二)年一月の第七〇回通常議会で政友会を代表して質問に立った浜田国松の、いわゆる割腹問答が、この派の立場を示している。彼は次のように述べている(原文片仮名)。

 「軍部の人は大体において、我国政治の推進力は吾らに在り、乃公出でずんば蒼生を如何せんと云う既を持って居らるると云うことは事実である。(中略)この空気と云うものは、軍部における思想の底を流れて潦々として尽きざるものである。(中略)五・一五事件然り、二・二六事件然り、軍の一角より時折種々なる機関を経て放送せらるる所の独裁政治思潮に関する政治意見然り。(中略)この底を流るる所の、ファシズムと申しますか、独裁思想と申すか、(中略)粛軍の進行と共に独裁的思想の重圧と云うものを並行して行えるものか否やと云うことに、我々は着眼をして居ったのである。」(同前書、第六八巻、三六頁、傍点筆者)

 「粛軍」すなわち陸軍ファッショ派の鎮圧の後に、陸軍全体が「ファシズム」に向うことの矛盾を鋭く衝いたのである。

 先に記したように、明治憲法の定める権限内では、立法府は行政府と並ぶ国家機関であったから、衆議院での発言は自由であった。浜田もこのことを自覚しており、この軍部批判に先立って、「なにものにも拘束牽制せられざる〔議員の〕自由をもちまして、国民の名において現下の国政に対して忌憚なきお尋ねを申し上げる」と前置きしている(同前書、三五頁)。
 しかし、それを前提にしても、正面から陸軍をファシズム呼ばわりした浜田の演説は、過激すぎるものであった。激怒した寺内寿一陸相は、「先程から浜田君が種々お述べになりました色々の御言葉を承りますと、中には或いは軍人に対しまして聊か侮辱さるるような如き感じを致す所」があると反論した。(同前書、四三頁)
 ここから浜田議員と寺内陸相の「割腹問答」が始まった。浜田は、「苟も国民代表者の私が、国家の名誉ある軍隊を侮辱したという喧嘩を吹掛けられて後へ退けませぬ」と寺内に迫り、寺内がただ「御忠告申した」だけであると答えると、浜田が次のような爆弾演説をしたのである。

 「私は年下のあなたの忠告を受けるようなことはしない積りである。あなたは堂々たる陛下の陸軍大臣である。併しながら、(中略)不徳未熟の衆議院議員浜田国松も、陛下の下における公職者である。(中略)あなたに忠告を受けなければならぬことを、この年を取って居る私がしたなら、私は覚悟して考えなければならぬ。(中略)速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったら、割腹して君に謝する。なかったら君割腹せよ。」(同前書、四五頁)
 
 衆議院本会議でここまで罵倒された陸軍大臣は寺内寿一が初めてであろう。憤った寺内は広田弘毅首相に衆院の解散を迫った。
 しかし、挙国一致内閣には与党も野党もない上に、陸軍と政友会のどちらを支持するかを総選挙で問うわけにもゆかない。広田首相は元老西園寺の使いに対して、「あの二・二六事件後の急場に大命を拝して今日までまず無事に来たが、今日の情勢では到底大命を果し得ないように感ずるから、今日総辞職することが適当と思う。」と述べて、一月二三日に総辞職した(『西園寺公と政局』第五巻、二四〇頁)。浜田演説の二日後のことである。

第6章 危機 1925-1937
423~426頁
坂野潤治『日本近代史』ちくま新書2012
<傍点部を、サイズを大きくし更に太字に改めました>
日本近代史 (ちくま新書)

日本近代史 (ちくま新書)

  • 作者: 坂野 潤治
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2012/03/05
  • メディア: 新書


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