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私の保守思想1 人間の不完全性 中島岳志 [読み物]

 世の中では、どうも「保守」という概念が揺らいでいるようです。
 あちらこちらで「保守」を自称する人がいますが、「保守とはどういう思想なのか?」と問うと、途端に答えがバラけてしまいます。やれ「靖国に行けば保守」だとか「大東亜戦争を肯定すれば保守」だとか、まるで「ヴィトンのバッグを買えばセレブ」といったような安易なフェティシズムが、保守を語る人々の間で流布しているようです。
 これは政界も同様のようで、政権から転げ落ちた自民党の中では、「保守路線の確立が」叫ばれているものの、思想的な共通合意は全くなされていないというのが現状のようです。「保守とは何か」を問うたとき、出てくる答えは、「九条の改憲」や「愛国心の重要性」などのフラグメンツ(断片)ばかりで、それをつなぎ束ねる根本的な思想の芯が見失われています。
 近年では、「日米安保を堅持すること」や「小さな政府」「官から民へ」「構造改革」といった新自由主義政策が「保守のとるべき立場」と見なされることさえありました。こうなってくると、「これまでの左翼の主張とは異なるもの」がすべて「保守」として語られる「保守バブル」が起きているとしか言いようがありません。
 今、重要なことは、もう一度、保守思想の原点に立ち返って、保守の立場を見つめなおす作業ではないでしょうか。そうしなければ、単なる「反左翼としての保守バブル」は、はかなく崩壊し(もう既に崩壊しつつありますが)、熱狂のあとの残骸だけが残されることになります。
 この連載では、私が考える保守思想の「芯」の部分を探りながら、今の日本が抱える課題について考えていきたいと思います。

                      *

 さて、ここから保守思想について論じていくわけですが、その際、まず対極にあると考えられる「左翼」について、論じてみる必要があると思います。そもそも近代保守思想は、フランス革命を支えた啓蒙思想に対する批判として、その姿を現したものです。近代保守思想の潮流は、伝統的な政治体制が根本的な崩壊の危機に立たされたときに、再帰的に誕生したものです。ただ、無意識のうちに継承している慣習や制度に安住しているのではなく、特定の価値が根本的な危機や動揺にさらされたときに、その価値の意義を改めて発見し、それをあえて選び取る行為を通じて、近代保守思想はようやく成立したのです。
 では、近代保守思想を誘発した「左翼」思想とは、どういったものなのでしょうか。
 「左翼」という思想を最大公約数的に定義すると「人間の理性によって、理想社会を作ることが可能と考える立場」ということが言えるでしょう。彼らは、人間の理知的な努力によって理想社会の構想を設計し、それを実現することによって、未来に進歩した社会が現前すると仮定しました。人間の努力によって、世の中は間違いなく進歩するというのが、左翼思想の根本にある発想です。
 これは、人間の「完成可能性」に対する信頼を彼らが有しているからこそ、出てくる発想なのでしょう。人間は知的にも道徳的にも、努力次第で「完成系」に到達できるという確信が、ヒューマニズムというイデオロギーを基礎として生み出されます。
 もちろん左翼にとっては、人間が完成可能なわけですから、その人間によって構成される社会も、進歩によって完成形に到達すると考えます。ここから合理主義的に社会を改造し、理想社会を構築するという設計主義が出てくるわけです。
 ただし左翼は、理想社会構築の手段を国家に求めるか否かによって、内部で路線が分かれます。
 まず、国家を使った平等社会の実現という構想に立つ立場として、共産主義や社会民主主義などをあげることができます。この両者では、国家のあり方をめぐって重大な対立がありますが、国家権力による富の再分配によって平等社会を目指すという点では、同様の立場に立っていると言うことができるでしょう。現在では、社会民主主義が有力な立場ですが、彼らの福祉国家的構想の中には、国家による平等社会の「実現」という設計主義的合理主義が潜んでいます。
 そのため、社民主義者は往々にして「テクニカル・ナレッジ」(技術的知)に傾斜する傾向があります。彼らは、技術の適用によって問題は解決すると考える「ポリティカル・エンジニアリング」(政治工学)を重視し、人間社会の複雑さや歴史の継続性を軽視します。
 例えば、近年、政界に多くの人材を輩出している「松下政経塾」の発想は、この政治工学への偏向が顕著なのではないかと思います。「政策新人類」と言われてきた人たちには、どうしても「テクニカル・ナレッジ」に対する過信が目立ちます。彼らは、社民主義の立場であれ、新自由主義の立場であれ、「プラティカル・ナレッジ」(実践的知)を軽視し、「テクニカル・ナレッジ」を絶対視するという左翼的態度において共通しています。
 それはともかく、左翼にはこのような社民主義的な立場とは別に、国家を平等社会実現のための手段としては利用しないという立場が存在します。
 その代表が、アナーキズム(無政府主義)です。アナーキストたちは、あらゆる抑圧を否定します。人間間に存在する抑圧―非抑圧の関係をラディカルに否定し、平等な個人の連帯を目指すのが、基本的にはアナーキズムの立場です。そのため、彼らはどうしても抑圧―非抑圧の権力関係を生み出してしまう国家の存在を根本的に否定しようとします。彼らは、あくまでも自立した個人の連帯やネットワークによって、平等社会を作ろうとし、あらゆる権力装置を否定しようとします。
 アナーキズムは極端な立場としても、そこから派生してきた市民社会主義の立場などには、国家に頼らない平等な再分配の可能性を探ろうとする流れがあります。この潮流の左翼からは「反国家」的主張が当然、多く見られることになります。
 このように、左翼の中にも国家の存在をめぐって、立場の違いというものが出てきますが、根本的には「人間の理性によって平等社会を作ることができる」という進歩主義をとる点で、彼らは共通しています。

                      *

 さて、いよいよ保守思想です。
 保守とは、このような左翼思想の根本の部分を疑っています。つまり「人間の理性によって理想社会を作ることなど不可能である」と保守思想家は考えるのです。
 まず、保守の立場に立つものは人間の完成可能性というものを根本的に疑います。
 人間は、どうしても人を憎んだり僻(ひが)んだりするものです。時に軽率で、エゴイズムを捨てることができず、横暴な要素を持っています。そんな人間は、永遠に完成することなどできず、不完全な存在として生き続けるしかありません。
 保守は、このような人間の不完全性や能力の限界から目をそらすことなく、これを直視します。そして、不完全な人間が構成する社会は、不完全なまま推移せざるを得ないという諦念を共有します。
 ですから、保守は特定の人間によって構想された政治イデオロギーよりも、歴史の風雪に耐えた制度や良識に依拠し、理性を超えた宗教的価値を重視します。前者は人間の「知的不完全性」の認識に依拠し、後者は人間の「道徳的不完全性」に依拠していると言えるでしょう。
 このような懐疑主義的人間観は、エリートの設計主義による理想社会の実現という構想に対して、疑いの目を向けます。保守は「裸の理性」によって構想されたユートピア幻想を否定し、急進的な改革や革命を厳しく批判します。保守は未来の進歩に対する楽観的・希望的な観測などよりも、歴史に蓄積されてきた社会的経験知を重視し、慣習や社会制度を媒介として伝えられてきた歴史の「潜在的英知」に信頼を置きます。
 このような保守の立場は、人間の進歩に対する懐疑の念を共有するものの、人間社会の変化そのものを否定する立場ではありません。
 社会は如何ともしがたい時間的変化にさらされ続けます。社会をめぐる状況は刻一刻と変化し、それに応じて我々も漸進的に変化を受け入れていかなければなりません。
 保守は単純な「復古」でも「反動」でもありません。
 人間は過去においても、現在においても、未来においても不完全な存在です。そんな不完全な人間が構成する社会は、歴史的に完成したためしがなく、今後も完成形に到達する可能性はありません。
 このような人間の不完全性を直視する保守思想家は、過去の一点に帰ればすべてがうまくいくという原理主義的な「復古」の立場はとりません。また、現在の制度を絶対に変えてはならないという「反動」の立場もとりません。なぜなら、過去も現在も、未来と同様に不完全な存在だからです。
 保守は、時間的変化に応じ、歴史に潜む潜在的英知を継承するための漸進的改革を進めようとします。しかし、その漸進的改革は、根本のところで「進歩に対する諦念」を内包しています。
 小林秀雄は「あらゆる現代は過渡期であると言っても過言ではない」と述べていますが、私たちの社会では永遠に問題が起こり続けます。しかも、時間の経緯と共に社会の様相は徐々に変化をしていきます。人間の感情は複雑で、その人間が構成する社会のあり方は、さらに複雑な要素を持っています。
 その中で重要なのは、変化を受け入れる「勇気」と、大切なものを堅持することの「沈着さ」です。そして、「何を変えるべきか」「何を変えてはいけないか」を見極める知恵を、歴史から継承された平衡感覚に求めることです。
 保守にとって重要な能力は、ユートピアを設計する能力ではなく「経験の神秘と不確実性とを従容として受け入れる能力」(マイケル・オークショット)です。このような人間の不完全性を謙虚に受け止める「冷静さ」と「賢明さ」こそが、まずは保守に要求される基礎的な能力なのです。

『表現者』 vol.28 平成22年1月号 ジョルダン
p.132~p.135
私の保守思想1 人間の不完全性 中島岳志(北海道大学公共政策大学院)准教授
表現者 2010年 01月号 [雑誌]

表現者 2010年 01月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ジョルダン
  • 発売日: 2009/12/16
  • メディア: 雑誌



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源太郎

こんにちは。ミクシィでお世話になりました源太郎と申します。

 さて、質問なのですが、左翼思想批判の中でF・A・v・ハイエクの「設計主義的合理主義」(『法・立法・自由』春秋社より)が書かれておりましたが、保守思想というものは経済はリバタリアニズムで行くということでしょうか?

 英国の保守主義がロックの所有権思想やエドマンド・バークの「世襲の原理」にて成り立ち自由経済にあることは分かるのですが、我が国ではいつ頃より自由主義経済になったのでしょうか?

 私が保守派を自称される方たちの間で理解できませんのは、渡部昇一さんにしても岡崎久彦さんにしても英国留学組の方たちは、英国保守主義をもって“保守主義”と主張していることです。マイケル・オークショットにしても、言っていることはハイエクとほぼ変わりません。我が国はリバタリアニズムが“保守”すべき伝統なのでしょうか?


by 源太郎 (2010-08-09 09:34) 

Reform_to[i:3]旧越山会

コメント、有難う御座います。

結論から申し上げますと、

“日本の”保守派はリバタリアニズムではない

、と思います。

近年私は保守政党における(いわゆる)新自由主義を考察しているのですが、日本の保守論壇誌も少なくとも「保守=自由主義経済」で言論をリードしてはいないようです。例、『表現者』。PHP社の『Voice』が比較的いわゆる新自由主義の路線のようです。

ただ、政治学の書物では、西洋政治思想の流れとして、プロテスタントの近代以降としては、基本的には保守政党右派は自由主義経済を標榜するものなのかなと捉えています。

ブログ本文はまるまる引用させて頂いたものなのですが(、これは自分でも丸暗記すべき位の論文かと思ったので外出先でもいつでも携帯で見返せるようにワープロを打った訳なのですが、またそうすることによってゆっくり全体をひとつひとつ丁寧に読み上げるという作業も出来たのですが)、本文中中島先生は保守思想として、いわゆる新自由主義を否定しています。

社民も新自由主義も、松下政経塾も官僚も皆「技術主義」「設計主義」「合理主義」である、と痛烈に批判しています。

上記は西部邁先生が番組内でもしばしば用いる表現です。

参考までに今月号の『正論』9月号(産経新聞社)でジャーナリストの東谷暁氏が、19世紀イギリスの保守党と自由党での「温情主義」と自由主義経済で(保守党の伝統の思想は温情主義であるとする)、日本経済復興の論考を掲載されています。保守と自由主義経済を考えるに参考になると思います。ちなみにこの3者が、西部氏が主幹を務める『表現者』で執筆しています。

日本がいつ自由主義経済になったのか、という質問に対しては、戦後一貫して中共やソ連に揶揄される程の社会主義的な官僚機構の権限の肥大化した中央集権国家だったのですが、93年の日米構造協議→94年よりの年次改革要望書、そしてやはり2001年からの小泉・竹中構造改革路線の定着からかと思います。先日の参院選のみんなの党の躍進は、有権者の間に一定程度潜在的な支持者がいるのを再確認出来た結果と思います。

社民な保守派の方に伺いたいのは、いつ日本が積極的に所得再分配や景気循環の優れない際大量の赤字国債を発行してまでして景気変動を成らして来た2000年の歴史があるのでしょうか?

宜しくお願い申し上げます
by Reform_to[i:3]旧越山会 (2010-08-10 07:26) 

源太郎

こんにちは。お世話になっております。

 さて、いきなり関係のない話からですが、私は東谷さんや中島さんが好きではありません。パール判決論争をやっていたのは有名です。あの議論では誰もケルゼンの「ケ」の字も読まずに議論をしているあたり、程度の低さを感じました。もちろんオピニオン誌は学会誌や大学の紀要ではないので詳細な議論は求められませんが、読まないで話をするのはヤメて欲しいものです。それは西部さんにも言えます。小林よしのりさんは論外でした。法学者が誰も出てこなかったのは呆れ返っていたからで、話をするだけ無駄だと判断したかに過ぎません。と、あくまで、私の好き嫌いの話でした。

 さて、保守主義陣営がリバタリアニズムを前提しないのならば、なぜハイエクを持ってくるのでしょうか?ハイエクは“設計主義的合理主義”の対概念として“自生的秩序”を用いますが、これは“神の見えざる手”をハイエク的に言い換えたに過ぎず、市場主義であることに変わりはありません。もし、保守主義といわれるものがリバタリアニズムと関係がないならば、ハイエクを持ち出すのはおかしくないでしょうか?
 中島さんにしても、リバタリアンでもないのならばリバタリアニズムの代表格ともいえるハイエクの“設計主義的合理主義”という概念を用いて、同じような批判をするのはおかしいですよね?リバタリアンではない方がリバタリアニズムに傾倒しているのですか??
 保守主義と関係ないのに名前を出されるハイエクも可哀想です。[i:3]旧越山会 さんは保守主義を御研究なさっているとのことなので、ご存知だとお思いますが、ハイエク本人は、確か晩年の書『自由の条件』で「私は保守主義者ではない」(記憶からなので引用不正確です)と言っておりました。
 ちなみに、渡部昇一さんや中川八洋さんあたりはハイエクがお好きなようでよく引用していますが、どちらも経済学はド素人のはずです。渡部さんはハイエクに関する本をいくつか出していらっしゃいますが、どれも頓珍漢とでも申しましょうか、読んでいないんですよね。ハイエク自身の本や論文を。それをハイエクの専門家から凄く批判されていました。まるでケルゼンの議論をしていた西部さんや中島さんのような感じです。

 次にご質問についてですが、私が社民なのかどうか自覚がないので(カテゴライズがすきではないので)、私のお応えする立場にあるのかどうか存じ上げませんが、まず、お話の設定に無理がございます。そもそも“国債”などというもの自体の歴史が浅いため2000年の歴史という舞台には乗せられません。ちなみに、保守主義のお立場であれば「2670年の歴史」とおっしゃっていただきたいところでした。我々はバテレンではございませぬゆえ。


by 源太郎 (2010-08-13 23:16) 

Reform_to[i:3]旧越山会

こめんとありがとうございます!

少々難解過ぎて私の理解力というより、学力・知識量の範囲を幾分逸脱している箇所も若干散見されますし…、

明日は、終日忙しいですし、ここしばらく、3~4日程度お待ちを頂けたらと思います!


宜しくお願い申し上げます
HN 旧越山会
by Reform_to[i:3]旧越山会 (2010-08-15 01:15) 

Reform_to[i:3]旧越山会

源太郎さま

こんばんは

遅くなりまして申し訳ありません。

15日に80人以上の方にお声掛けして都内某所へ大挙して赴いたのですが、炎天下熱中症になる方が出る予想はしていたのですが、案の定大きく体調を崩された方が現れて、夜通し徹夜で見舞い・看病して、その後はこちらが疲れてしまいました。

新たに理論武装せずままお答え致します(笑)

> 私は東谷さんや中島さんが好きではありません。

→私も必ずしもお二方を強く支持しているわけではありません。


私の基礎学力が源太郎さまより程度が低いということ前提でお手柔らかにお願いします。

中島氏は、保守派で、リバタリアニズムではないですよね。

        保守
         ↓
    社民←-→新自由主義

保守の立場は社民でも新自由主義でもないのだとしていますね。日記本文、左翼について説明しているところで

「社民主義の立場であれ、新自由主義の立場であれ、「プラティカル・ナレッジ」(実践的知)を軽視し、「テクニカル・ナレッジ」を絶対視するという左翼的態度において共通しています。」

としています。源太郎さんの御指摘は、「保守」の人が、(余りよく知らない
のに本来相容れないはずの)自由主義を持ち出して社民を批判するのがおかしいということでしょうか。

> 旧越山会 さんは保守主義を御研究なさっているとのことなので、ご存知だとお思いますが、ハイエク本人は、確か晩年の書『自由の条件』で「私は保守主義者ではない」(記憶からなので引用不正確です)と言っておりました。

→申し訳ありません。ハイエクは手元に所有している『隷従への道』をサラっと…、買ったけど読んでいない、という程度です。が! 同じく購入後なかなか手をつけ始めてもいないミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』で同様のくだりがあったのを記憶しています。…、…。引用します。




by Reform_to[i:3]旧越山会 (2010-08-19 21:15) 

Reform_to[i:3]旧越山会

 自由主義という言葉の意味がこのように変質した結果、かつては自由主義とされていた考え方が、いまでは保守主義と呼ばれている。このすり替えは許し難い。一九世紀の自由主義者は、急進主義者だったのだ。ものごとの根源を追求するという語義からしても、また社会の仕組みの大胆な変更を要求するという政治的意味合いからしても、急進的だった。後継者たる現代の自由主義者も、そうあるべきだ。国家の関与は、自由の拡大促進に与するものであればもちろん望ましいけれども、自由を大幅に妨げるものは許すべきではない。さらに、保守主義という言葉にも注意が必要である。この言葉はひどく広い意味で使われ、相容れない主義とも結びつけられるようになった。いずれ「自由主義的保守主義」だの「貴族主義的保守主義」といった形容矛盾がはびこるのは必定である。

ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』 日経BP社
序章 p.31より
by Reform_to[i:3]旧越山会 (2010-08-19 21:41) 

Reform_to[i:3]旧越山会

上記引用の中でフリードマンは「自分が保守主義者であるか否か」については読者は判断できませんが、保守主義という言葉と自由主義という言葉の定義、特に保守の側が自由主義を用いるのに過敏になっています。

浅学な私の解釈では、この自由主義と保守主義ですが、東大総長(→学習院教授)佐々木毅先生『政治学講義』などを読んでも思うのは、20世紀前半~中盤のいわゆる(アメリカ英語の)リベラルに対して、建国の理念「自由」及び19世紀の古典的自由主義に帰る、彷彿とさせる、という意味で「保守」という言葉を使うのかなと思います。

リベラル党左派のエドマンド・バークの言う「保守主義」や、日本の一部の方の言う「保守っ!」ともまた異なる使用法かなと思います。

→自由主義から、保守を言う。

> 次にご質問についてですが、私が社民なのかどうか自覚がないので(カテゴライズがすきではないので)、

誤解が生じていたとしたら、申し訳御座いません。私の最初のコメント、一番上から数えて源太郎さんを含めて2つ目のコメントの最終段落冒頭

社民な保守派の方に伺いたいのは、

で想定している「社民な保守派の方」とは、本人は本ブログで社民を否定されている中島岳志准教授と、TV番組の中で自身の考えを「社民」という言葉で(安倍元総理に社民への転向を強く勧める)認めている西部邁秀明大学学頭のお二方のことです。

ちなみにどちらかというと私はカテゴライズは嫌いでもないのかも知れません(笑)

> まず、お話の設定に無理がございます。そもそも“国債”などというもの自体の歴史が浅いため2000年の歴史という舞台には乗せられません。

→国債と、歴史と保守と、でうまく語れるよう今後勉強して参ります。

> 保守主義のお立場であれば「2670年の歴史」とおっしゃっていただきたいところでした。我々はバテレンではございませぬゆえ。

→紀元は2670年は存じ上げております。田舎の祖母は頻繁に「昔、紀元は2600年(の年があった)」と言っておりました。流石に紀元では数えていませんが、今でも昭和85年とか言っていると思います。“満”ではなく、“数え”で年齢をカウントしています。

 2600 + 定年60 + 西暦下2桁

で、その年の紀元がわかります。

 例、2600+60+(2010-2000)=2670

御指摘の通りではありますが、私は敢えてアバウトに2000年としました。理由の1つは、「最初数代は実在しないのだ」とか「必ずフィクションの部分がある」といった左のインテリの歴史学に精通された方につっこまれると、私が勉強不足から、上手く反(かえ)せないからです。

直前の私の表記「変動を成らして来た」辺りから、微妙なニュアンス・テイストを味わって頂けたらと思います。キーワードが忍び込ませてあるかも知れません…。

宜しくお願い申し上げます

by Reform_to[i:3]旧越山会 (2010-08-19 22:45) 

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