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ムーアの宗教を受容し、道徳を退ける―『確率論』 [読み物]

2015-01-26 19.58.01×96.jpg画像は御参考まで
 『確率論』が書かれた動機の一つに、学生時代の哲学の師ムーアの『プリンキピア・エティカ』(一九〇三)を乗り越えるということがあった。ムーアはラッセルとともに分析哲学を創始したとされる人物であり、ケインズはムーアを心底から敬愛していたが、ムーアの書にはどうしても納得が行かない箇所があった。その箇所を修正し、ムーアが本来書くべきだった道徳哲学を完成させようとケインズは目論んだのである。
 ケインズの来歴を記した第一部でも触れたが、彼が物心ついた頃のイギリスでは、威厳や礼節が強調されるとともに社会には暗部も存在し、二重規範や偽善が瀰漫していた。二〇歳を迎える頃のケインズは偽善的な世俗倫理を拒否するようになり、不道徳であっても真に倫理的でありうることは可能と考えていた。そして彼のそうした振る舞いを正当化してくれるのがムーアの倫理学であると思われた。
 世俗の道徳は、「社会にとって有益である」とか「誰かにとって好ましい」という言い方で、特定の行動様式を強いている。倫理学においては、功利主義がそうした論法を支えていた。これに対してムーアは『プリンキピア・エティカ』において、道徳にかかわる問いに先行する基礎命題である「善」は、社会にとっての利益になるとか誰かの効用を高めるといった事実に還元して定義することはできないと主張した(善の定義不可能性)。「善いは善いとしかいえず定義できない」。
 黄色を光の振動で表現したとしても、黄色が分かったことにはならない。「黄色い」というのは、直接の視覚によって識別される何ものかであるからだ。同様に、「善い」も事実によって定義されたり正当化されたりはしない。何が善かは直覚されるだけであり、内観による真摯な吟味こそが必要である。「善」は内在的価値を有する何ものかであって、それを感覚器官でとらえることのできる自然に還元するのは「自然主義的誤謬」である。「善い」は、「益がある」とか「好ましい」などの自然主義的述語には還元できない。先行命題の性質を他の事実に安易に還元することは、「自然主義的誤謬」なのだ。よって功利主義は誤謬を犯している。こうムーアは言う。
 とすれば、「社会にとっての有益さ」を目指す政治家の偽善的行為や「誰かにとっての好ましさ」を示す経済的成功は、ともに「善」すなわち人生の究極の目的ではないことになる。ムーアのこの主張は、ヴィクトリア朝において紳士に課された義務に偽善を感じ取っていたケインズら青年たちの心をつかんだ。ケインズが生涯、社会の幸福を最大にすべしというベンサム的な功利主義を「現代文明を蝕むウジ虫」として毛嫌いしたのも、効用の最大化を説くピグーの厚生経済学を一顧だにしなかったのもその表れだし、経済学の師マーシャルについても、「(彼にとって)経済問題の解決は快楽説的計算の応用ではなくて、人間のより高級な・・・・・・能力を行使させるための先行条件であった」と評価している。
 だがケインズには、ムーアには不徹底があるとも感じられた。ムーアは、善をなすための手段である特定の「行為」が正しいかどうかまでは直覚によってはとらえられないから因果的に判断するしかないが、行為の正しさは原因と結果の関係によって論証できると述べている。ところが将来は不可知であるから、どのように行為すれば善さが高まるかは蓋然的にしか分からない。そこでムーアは、常識的な道徳律や一般的規則に服すことを唱えた。
 ムーアの宗教とは、善の直覚にもとづく「時間を超越した、熱烈な、観照と交わり」であり、「美的体験の創造と享受であり、そして知識の追求」であった。一方ムーアの道徳とは、未来の不可知性を論拠に一般的規則の遵守を説くものであった。ムーアが宗教と道徳を併置しようとするのは、ケインズにとっては異様な主張に感じられた。「われわれは、いわば、ムーアの宗教を受け容れたが、彼の道徳を捨てたのである」。
 将来に何が起きるか分からないからといって過去に通用した一般的規則を遵守せよとムーアが言うのは、将来には過去に起きたことだけが起きるという「頻度説」の確立観を前提とするからであろう。しかし将来において新たな種類の事象が起きるなら、過去の体験は役に立たないはずだ。ケインズはこう考え、将来に起きる事象は頻度だけでなく種類すら分からないという不確実性を前提に、確率論の検討に向かった。
 ケインズが原因と結果について推論を行う際に拠り所としたのは、演繹ではなく帰納であった。ヒュームからミルに至るイギリス経験論では、何羽か見かけた白鳥がすべて白かったという具体的経験から「すべての白鳥は白い」という一般的命題を導く推論が、帰納法と呼ばれた。演繹は確実な推論形式であるが、原因と結果の関係が蓋然的でしかない場合には使えない。それに対して帰納的推論は、論理的に確実ではないにせよ、信念として何かしらの合理性をはらんでいる。ここでケインズが取り組んだのは、帰納的推論において信念はどのような合理性を持つのかということであった。
 頻度説はJ・ヴェンが体系化したもので、推論の妥当性は過去の経験的頻度だけを論拠としている。このような頻度確率に対しケインズは、「論理確率」を掲げる。彼は前提とされる命題の集合をh、hから推論され結論となる命題の集合をaとし、hの知識がaに対して度合いαの合理的信念を持つことが正当化されたとき、「aとhとの間に度合いαの確率―関係がある」と言い、a/h=αと書く。
 ケインズは蓋然性を、命題から命題へ、前提から帰結へいたる推論にかかわる何ものかとみなしたのである。それは経験のみならず、個人の主観ないし心理からも独立し、一種の客観性を帯びている。また命題自体の真偽ではなく、命題間の関係の「確からしさ」が問題になると言う。
 ここでケインズは、ムーアが善の定義で用いた直覚主義を命題間の蓋然性にも適用するというアイデアが思いつく。命題間に存在する推論の蓋然性もまた直接知覚され、それ以上は分解されないはずだ、と言うのである。蓋然性とは過去の経験が各命題に対して与えるものではなく、命題と命題にかかわる「確からしさ」なのだ。たとえばある仮説hの一定の証拠eに関し、ラッセルの形式論理学ならば演繹的推論を用い、e/hは0(否)か1(是)かである。けれども我々の日常生活は、そのように確実ではない判断に満ちている。ケインズの帰納的推論は、日常の推論に相当する0<a/h<1の合理的信念を扱うのである。

前掲 松原隆一郎『ケインズとハイエク 貨幣と市場への問い』講談社現代新書2011 第四章 論争後の軌跡―『一般理論』と主観主義へ より 122頁~127頁
ケインズとハイエク―貨幣と市場への問い (講談社現代新書)

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  • 作者: 松原 隆一郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/12/16
  • メディア: 新書


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