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ケインズ―早熟な警世家 [読み物]

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 ヴィクトリア朝(一八三七―一九〇一)も末期に至ると、一九世紀において自由貿易と金本位制そして「世界の工場」と称された産業力により築かれたイギリスの覇権にも翳りが見え始めた。帝国主義戦争により植民地は増えていたし、貿易と海外投資はいまだに莫大な富をもたらしてはいた。けれども一方では、南北戦争の危機を脱したアメリカとともに、ドイツが海外市場の獲得をめざしてイギリスの権益を脅かしていた。
 ドイツでは技術革新も目覚ましく、とりわけ企業を大規模化したことで化学・電気・自動車産業など大量生産の分野に新境地が拓かれていた。一八八〇年代にはイギリス国内にもドイツ製品が溢れるようになり、それまで世界に向け唱えていた自由貿易の理念にも疑惑の目が向けられて、イギリスでは「公正貿易」運動や一八九〇年代の「反ドイツ製品」キャンペーン、一九〇三年にはJ・チェンバレンの「関税改革」運動が展開された。
 一方、一九世紀末のドイツはナショナリズムに沸き立ち、ヴィルヘルム二世は一八九六年に「世界政策宣言」を公表した。一八九八年から一九一二年まで、五次におよぶ「艦隊法」によって海軍力を拡大し、イギリスと「建艦競争」を戦うまでになっていた。ドイツの勢力拡大により、イギリス生まれのケインズとオーストリア生まれのハイエクは、運命の糸で結びつけられることになった。
 世紀末のイギリス経済には、「オーバー・コミットメント」と呼ばれる既存産業への固執と企業家精神の衰弱、失業が広がっていた。すでにウィッグ党は自由党に改組、参政権の拡大と政治改革を受けリベラル化しており、社会主義の発展を目指すフェビアン協会も発足していた。イギリスは、古典的な自由主義を唱える先導者ではなくなっていた。
 ケインズ(John Maynard Keynes)はイギリスに没落の兆しが見え始めた一八八三年六月五日、イギリスの大学町・ケンブリッジに生まれた。父ネヴィルは経済学者、母フローレンスは社会事業家であった。当時のイギリスではピューリタニズムの再興とも評される福音主義が興隆し威厳や礼節が強調されたが、児童労働や売春など社会の暗部も存在して、モラルには裏表があり偽善が瀰漫していた。貴族である地主、新興の実業家、上級労働者、下級労働者からなる階級社会であったヴィクトリア朝時代の社会秩序は福音主義の教えと社会的服従に依存し、そうした偽善に疑問を感じる若者たちの間には、「権威の危機」が広がっていた。
 ケインズは一八九七年、上流階級の子弟にとっては憧れの的であったイートン・カレッジに入学すると、さっそく哲学と古典、歴史学に才能を示した。一九〇二年にキングズ・カレッジ(ケンブリッジ大学)に進学、様々な学生団体に加わり、なかでも一部の選ばれた人々で構成され外部には秘密とされた哲学討論集団「ザ・ソサエティ」(通称「使徒会Apostles」)に属した。
 ケインズが二〇歳になる一九〇三年、G・E・ムーアが『プリンキピア・エティカ』を発表した。B・ラッセルも同年『数学の原理』を出版し、事実上この年に「分析哲学」が発足する。彼らが探求したのは、イギリスで当時人気の高かったヘーゲル哲学を始めとする種々の観念論や形而上学によらず判断の根拠を示すことができ、科学や倫理の基礎を固めうる哲学であった。とりわけムーアは「善い good」とか「べき」、「行為」などの哲学言語を分析することにより、哲学上の問題とされたものを解消しようとした。
 ムーアは『プリンキピア・エティカ』で、「社会にとって有益である」とか「誰かにとって好ましい」は、「善さ」とは同義ではないと主張した。社会や他人のために自己犠牲をも厭ってはならぬというモラルは、「善さ」とは必ずしも一致しないと言うのである。この主張はケインズを驚かせ、感激させた。「社会にとっての有益さ」を目指す政治家の偽善的行為にせよ、「誰かにとっての好ましさ」を示す経済的成功にせよ、ともに人生の目的とは限らぬと言うのだ。この指摘は、ヴィクトリア朝において紳士に課されたような義務に偽善を、社会が求めた金銭的成功に低俗さを感じ取っていたケインズら青年たちの心をつかみ、偽善や低俗さからの解放を可能にするものと受け取られた。
 ムーアはさらに同書末尾で「理想的なもの」を論じ、善は外部の世界や時間の経過から離れて精神の内部で愛や真や美とともに直覚されるとして、「人間的な交わりの喜びと、美的対象物を楽しむこと」がもっとも高い価値を有すると述べた。この教えに接したケインズは、「感動的で陶酔的、一つのルネッサンスの始まり、地上における新しい天国の開始であり、われわれは新しい摂理の到来を告げてまわる伝導者として、何も恐れることはないのだと感じていた」とまで記している。この託宣により、社会や他人、金銭や効用に還元されることのない交遊や観照が是認された。人は内面をあやつる倫理と外面から拘束する道徳や慣行とでみずからの行いを方向づけるものだが、内面のみ見つめて外からの縛りはうち捨ててよいとみなしたのである。ムーアのこの教えに従って、使徒会では真理のみが重視され、意見を翻すことに躊躇してはならないとされた。後年、ケインズは様々に意見を変えたが、それには使徒会での経験が反映されている。
 ムーアの倫理学は、使徒会や若き芸術家・文学者の集いである「ブルームズベリー・グループ」において「寝床で若い男に髭を剃ってもらう」ような同性愛者としてふるまっていたケインズに、正当化の論拠を与えたかに思われた。ケインズが終生、貨幣愛を「エセ道徳」と嫌悪したのも、将来に備えて貯蓄するより現在の一瞬に燃焼することを優先するこうした教えに従ったせいであろう。
 ケインズは後年、経済学の師マーシャルについてR・F・ハロッドに「ねえ君、彼はまったくばかげた人間だったよ」と侮蔑的に語ったというが、師の有名な「暖かい心に冷たい頭脳」なるモットーにも、ヴィクトリア朝的道徳観の偽善性を感じ取ったということなのであろう。けれども、かといって、ケインズが慣行に対し侮蔑のみを向けたとまでは言えない。友人・家族への親愛や行政組織における責務などにつき、ケインズは誠実であった。もっともヴェルサイユ条約の内容に憤激して大蔵省を辞し、ロシア人バレリーナを娶るという型破りなやり方が、彼なりに社会に筋を通す振る舞いだったのではあるが。
 けれどもケインズには、ムーアの哲学には不徹底な部分があると思われた。そこで一九〇四年、使徒会においてその修正を図る「行動に関する倫理」と題する論文を発表する。そしてマーシャルやピグーの個人授業を受けつつも、一九〇六年の大学卒業後はいったんインド省に入省、一九〇八年にこのテーマを発展させた確率にかんする論文を書き上げた(確率にかんする構想はふくらみ、一九二一年になってようやく『確率論』として出版にこぎ着けている)。マーシャルの薦めもありインド省を辞してケンブリッジ大学に戻ったケインズは、翌年にはフェローの資格を得て学部では金融論を担当した。一九一一年には三四年間その職を務めることになる学会誌『エコノミック・ジャーナル』の編集を引き受け、さらに自由党の活動にかかわるようになる。一九一三年、当時支配的であったA・マーシャルの貨幣数量説をインドの貨幣制度改革に適用した『インドの通貨と金融』を出版する。
 ケインズが三一歳になった一九一四年六月二八日、オーストリアの皇太子夫妻がボスニア州都のサラエヴォでセルビア人青年に銃撃を受けて死亡、オーストリアはセルビアに宣戦布告し、複雑な利害関係にあった列強も次々に参加していった。第一次世界大戦の幕開けである。英独両国はついに衝突することとなったのである。ドイツ・オーストリアの同盟国はロシア・フランス・イギリス・日本の連合国と戦い、戦闘は一九一八年一一月にドイツが休戦を申し込むまで続いた。
 この間、ケインズは一九一四年の金融恐慌に際して大蔵省から協力を要請され、一九一五年には同省に入省している。さらに一九一七年、イギリスの対外金融を取り仕切る新設のA課の課長となり、同盟国間の国際貸借を担当、イギリスの融資によって連合国軍が物資を購入する制度の確立やドイツに対する賠償請求額の算出に奔走した。
 一九八センチの長身で風采がよく、ブリッジ・ゲームをたしなみ噂話で人を楽しませたケインズはすでに有能な大蔵省官僚であると目されており、大戦終結後の一九一九年、パリ講和会議に大蔵省首席代表として列席する。賠償額を妥当な線に抑えることに同意するようイギリス首相のロイド・ジョージに働きかけたがそれに失敗すると、なんと議決に反対し大蔵省を辞職、自説を『平和の経済的帰結』(一九一九)として出版する。直前まで眼前で接してきたG・クレマンソー、W・ウィルソンらの巨頭を、随行した一大蔵官僚が生々しくかつ皮肉に描写したわけで、話題を呼ばないはずがない。こうしてケインズは一躍時論家として名声を得ることとなった。
 この本でケインズは、連合国がドイツに期待する賠償額は支払い不可能であること、ヨーロッパの繁栄は複雑な連帯に依存するものでありそうした請求を強行すればすべてが破綻してしまうだろうこと、請求額の中に恩給や諸手当を入れるのは信義に反するということ、そしてドイツに対する正当な請求額はドイツの支払い能力の範囲内とすべきことを説いた。さらにケインズは、戦後の金融市場の安定のため連合国は互いの負債を完全に取り消すこと(これはアメリカに二〇億ドルという巨額の債権を放棄させることを意味した)、インフレがもたらすであろう富の恣意的な再配分もまた資本主義を崩壊させること、かといって物価統制は不当であることを訴えた。賠償と戦債をめぐっては続編の『条約の改正』(一九二二)でも追及している。

松原隆一郎『ケインズとハイエク 貨幣と市場への問い』講談社現代新書2011
第一部 伝記―二つの人生とまなざしの交錯
第一章 交友と衝突
より26~33ページ
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