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民■党の解党 [読み物]

 近衛を党首と想定する新党運動の勢いに負けて米内が辞任した以上、後継は近衛以外にあり得なかった。しかしすべての政党が解党したあとに近衛新党を打ち立てるシナリオは、第二次近衛内閣がさきに成立したことで狂った。それだけではない。近衛周辺の思惑と異なり、民■党の解党が進まなかった。
 民■党の主流派は内心、斎藤の「反軍演説」を支持していた。民■党は新党運動に対して「その意に通ずる能(あた)わず」と反対する。「如何に非常時なればとて、故なく解消出来るものでない」からだった。
 民■党は中村三之丞(さんのじょう)衆議院議員が言うように「自己改革」を挙げる。「全党員政治の第一戦に奮闘する」。あるいは「党員公儀を尊重する」。そのために「分党政党体制」を改編する。中村にとって民■党に必要なのは「旧政党意識から覚醒」することだった。
 このような「自己改革」をおこなう政党が連携して「統一体制」の下で「強力政治」をおこなう。民■党は既成政党を前提とする新体制をめざそうとした。
 しかし既成政党の「自己改革」による新体制は手遅れだった。民■党がどれほどがんばってみても、その他の政党はつぎつぎと解党していく。既に一九四〇(昭和一五)年七月六日に社会大衆党が解党していた。同月一六日には政友会正統派(久原派)、三〇日には政友会革新派(中島派)がそれぞれ解党する。
 新党運動に乗り遅れるな。このままでは政治的に座して死を待つことになる。それならば一刻も早く新党のなかに座席を確保しよう。大方の政党がこの考えだった。対する民■党は「何処(どこ)に行く汽車か判(わか)らぬ中に乗るような馬鹿はいない」と批判する意見があった。民■党は新政治綱領をとおして「自己革新」を遂げることで、今の政党の立場に止まろうとした。しかし出来上がった新政治綱領案は、時代の流れに即応するかのように、「議会中心主義」を削り、「国体の成果を顕揚」するとの項目を加えた。このような民■党に止まっても仕方がない。脱党者が相次ぐ。七月二五日には四〇名が新党に参加するために脱党した。残された町田総裁のグループは孤立無援となった。やむなく民■党も八月十五日に解党する。
 すべての政党が解党したあとはどうなるのか。民■党の北昤吉衆議院議員は党機関紙の七月号で予言する。「既成政党が解消して、大合同を遂げて強力新党を作り上げても大したことは出来るものではない。一国一党のドイツ、イタリアの跡を追わんとして、政党法でも設けて、政府反対党の禁止をやることは憲法の規定に戻って、近衛公の賛成し得るところではあるまい」。北は近衛の気持ちを見透かしていた。これでは「ナチス、ファッショの代用品はおろか、国共〔中国国民党・共産党〕合作の再生品どころが落ちであろう。近衛公が財界、学界、各団体の代表者を網羅〔難〕したいというのも無理はない」。
「既成政党の無自覚は政党解消を結果し、近衛公一党の熱情と責任の欠乏とは新党を短命に終わらせるであろう」。北の予言した状況は、「新党」が大政翼賛会に至る紆余(うよ)曲折の補足説明がつけば、ほぼこのとおりになる。
誤:民■党

正:民政党
VII 二大政党の解党とその後,226頁~28頁
井上寿一『政友会と民政党 戦前の二大政党制に何を学ぶか』中公新書2012 102192.jpg
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